人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり
恋愛結婚をした両親のもとで生まれた。
家庭の事情で4歳まで両親とは離れ、別の家で育てられた。
おじいちゃんは地元の有力者だったのでいろんな大人の人から可愛がっていただいた幼少期をすごした。
小学生時代はよく遊びよく勉強をしていたのでそれなりに人気者だった。市の水泳大会で1位になったり、県知事賞などを受賞する発明少年だった。のちに商品化された掴める画びょう等。
中学生時代は小学生時代の華やかな人格の反動から、一転寡黙な路線を演じ、暗いとか言われていた。それでも学校で2番目の数の甘いお菓子を2/14にゲットするしたたかさも持っていた。
高校時代は
一年の時はサッカー部
二年の時はラグビー愛好会
三年の時は天文部に籍をおいた。
また頻繁に渋谷通いをしていた。
大学から
マジなボードセーリングをはじめ、毎日授業が終わると海に直行した。
社会人になってからも海の生活は続き、真っ黒けっけで、チームに所属して活動した。
その後、自らチームを率いて海の生活を続けた。
震災の時は、海外の同志やプロからもたくさんの励ましの言葉をもらった。
しかし、チームから生存不明者をだし、心底疲れてしまったのと、今までとは全く逆の人生を生きようと考え、私は海の人生に終止符をうった。
現在、
ひょんなことからバレーボールをはじめ、またまた偶然が重なり太白ファイヤーズにお世話になるようになった。
こうして考えてみると、
首記の句がある意味???でもあるが、2011.3.11から始まった私の第2の人生を動かす原動力になるような言葉でもあるような気もする。
そして40代最後に記しておきたいこと。
癌で闘病中ではあるが両親に感謝
黙って好き勝手をさせてくれる妻に感謝
その次は
これからの人生後半戦を豊かなものにしてくれそうな太白ファイヤーズとその親父軍団(大内ファイヤーズ)に感謝。また美人の母軍団にも(←ボッコボコにされたくないので後から付け足したわけでは決してない)
もちろん、その他たくさんの人にも感謝です。
今日までありがとう。
明日からもよろしくね。
明日からは
ダンディ路線で行きます。(そうだカツラもかえなきゃ)